弁護団紹介
弁護団紹介
共同代表挨拶
弁護士 小野寺 利孝
福島原発被害弁護団活動を担うおもい
私は、当弁護団の共同代表の一人です。2011年2月21日私は70歳となり新年度が始まる4月には、弁護士活動45年を迎えることもあって、自分の弁護士人生をどう設計するか、自分なりに検討してみました。この時まず考えたのは、自分が参加している各種の人権弁護団活動でした。「中国人戦争被害賠償請求事件弁護団」「全国トンネルじん肺根絶弁護団」「中国『残留孤児』弁護団」「首都圏建設アスベスト訴訟弁護団」これらはいずれも大型集団訴訟を政策形成訴訟として求められる法廷内外の活動を展開しつつありました。これらの長短いずれの弁護団活動も、決着つけるには今後最短でも2~3年から4~5年を要する見通しでした。
ところが、その直後に3・11を迎え、「原発震災」は、私のふるさとを襲い、おだやかで美しく豊かな自然環境を破壊し、多くの人々の生活を根底から奪いあるは大きく傷つけるに至りました。3・11以来ふるさとの人々が苦悩する姿に接するたびに、そして日を追って過酷な被害の実態が明らかになっていきました。同時にこの史上最大・最悪と言われるに至った原発公害をもたらした「加害の構造」の究明も各界で急速に進展するに至りました。
私は、これまで原発の危険性を指摘する声に耳をふさぎ、あるいは反原発訴訟を身近な人々が闘っているのを知っても、これに関わらないようにしてきた一人です。それだけに、避難を強制された人々の苦悩や一瞬にして3・11前の平穏な生活を奪われてしまったふるさとの人々の苦悩に接するたびに、私は自分の心の痛みが強まるのを抑えようがありませんでした。「人が人らしく生きることの出来る世の中にするために役立ちたい」私はこのようなおもいをもって青春時代から老人となった今日まで弁護士として多様な「人権闘争」を担ってきました。高齢の身で背負いきれないこの「福島原発公害」に自分はどう向き合うべきか、日々の報道を前に考えるのですが、簡単にその答えが見出せません。「現場に身を置いて考えてみよう」4月初旬、私はそう考えて一人車を走らせていわき市に行き、浜通りの惨状を見分し、友人たちにも会いました。決定的だったのは、盟友の広田次男弁護士事務所を訪れたときお会いした伊東達也さん(現在-元の生活をかえせ・原発事故被害いわき訴訟原告団長)、早川篤雄さん(現在-福島原発避難者訴訟原告団長)とのお話しでした。そして広田さんからの福島原発公害弁護団づくりの提案でした。自分の残された時間と自分が担っている弁護団の活動状況から考えれば、新しく弁護団を立ち上げ、その代表の一人に就くのは余りにも無謀というか、果たして責任を果たせるかという思いもありました。しかし、自分のふるさとを奪われ傷つけられた怒りは抑えがたく、自分の経験を活かすことに意味があるなら、せめて弁護団活動を軌道に乗せるまで、次には新しく訴訟戦略方針を練り上げるまで、さらには基軸訴訟を提起するまでと考えてやってきました。今日では、せめて福島地裁いわき支部で勝訴判決をとるまでは、と目標を高くして活動しています。
今日、この弁護団は、原発公害訴訟で基軸となる2つの大型集団訴訟原告団を支えて活動する大きな弁護団に急速に成長し、力を強めつつあります。老・中・青という三世代の団結した弁護団の基礎もつくられつつあります。私も私の弁護士として残された時間は、そう多くはないと思いますが、心身ともに任に堪えうる限り、被害者の皆さんが掲げる「全面解決要求」の実現へ向けて意義ある一里塚を築くため、可能な限り弁護団活動を担い続けたいと思います。